第3回「音程拡大のカノン」レポート
今回は忙しすぎてレポートが遅くなってしまいました……。
2016/5/29(日)、四谷三丁目のレンタル・スペース「マグノリアのカエル」で、GEB読書会第3回「音程拡大のカノン」を開催しました。
今回も8名もの方々にご参加いただきました。参加してくださった皆さん、ありがとうございます。
課題章
今回の課題章は下記です。
- 音程拡大によるカノン
- [第6章] 意味の所在
- 半音階色の幻想曲、そしてフーガ演争
- [第7章] 命題計算
- 蟹のカノン
- [第8章] 字形的数論
- 無の捧げもの
- [第9章] 無門とゲーデル
ゲーデルの定理に向かう技術的なトピックが多く、内容的にはほとんど数学基礎論の話になっています。
今回の内容は実際に手を動かしてみるべきだと思ったので、次回は同じ範囲で字形的数論ワークショップとすることにしました。
数学基礎論のさわりの部分を皆さんで体験できたらと思います。皆さん奮ってご参加ください。
今回のスライド
www.slideshare.net
今回の内容
音程拡大によるカノン
日本の俳句、それに音楽を鳴らすジュークボックスとレコードにまつわる対話篇です。
亀が奇妙なジュークボックスを紹介します。それにはレコードが1枚しかなく、しかもプレーヤーの方が回転して音を出す仕組みになっています。
別の曲を掛けた時は、なんとプレーヤーの方が別のものに入れ替わって、同じレコードから別の音楽を引き出します。
意味の所在
あるメッセージが受け取られた時、意味というものは果たしてどこにあるのか? ということが論じられます。
日常的な感覚では、意味はメッセージそのものに刻まれているように思えるのですが、深く考えると必ずしもそうとは言えません。
メッセージには次の3つの層があることが明らかにされます。
- フレーム・メッセージ
- 「私はメッセージです。もし可能なら、私を解読してください」というメッセージ。
- 外部メッセージ
- 内部メッセージをいかに解読するかを教える情報。
- 内部メッセージ
- 伝達されるべき本来の情報。
私たちがメッセージを「解読」するときには、かならずこの3つの層を通過します。 こういったメッセージを解読する知能というものは普遍的なものだろうか? という疑問が提示されます。人間以外の知能も、同じようにパターンの中にメッセージを認め、そこから意味を引き出すのか?
この疑問を解くためには、人間の直観と違った形で「知能」を定式化する=AIを作り上げるか、また、宇宙の別の知的生命体と出会うほかありません。
しかし、もし人間とまったく異なる「知能」を持っている生命体があったとして、果たしてそれが人間と同じ意味のレベルで交信できるのでしょうか……。
半音階色の幻想曲、そしてフーガ演争
亀とアキレスの論争の対話篇です。亀の矛盾を亀自身に納得させようとアキレスが策略しますが、その試みは見抜かれてしまいます。
命題計算
この章では、記号システムによる論理演算、「命題計算」が紹介されます。
この命題計算を用いると、限られた何種類かの記号と規則だけで、仮定から結論が導き出せます。もちろん、その結論はこの形式システムの上での「正しさ」に過ぎませんが、それでも、少なくとも厳密な方法にはなっています。
命題計算は、日常の言語に比べれば極めて単純で融通の利かない形式システムですが、もっと大きなシステムの基礎として埋め込むことができるものです。
続く章では、この命題計算を埋め込んだ数論のシステムが構築されます。
蟹のカノン
蟹を中心に、前後対称に展開される対話篇です。不思議なことに、後の方に行くと出だしと逆方向の対話になっているのに、ちゃんと意味が通るように語られています。
しかも、その対話の中で語られているのは「蟹のカノン」、本対話篇と同じように、時間的に前後対称の進行を見せる音楽についての話題です。
字形的数論
本章では、数論を記号だけの規則で扱えるようにする「字形的数論」、略して TNT (Typographical Number Theory) が紹介されます。
これは19世紀の数学者ジュゼッペ・ペアノが考案したペアノ数論と呼ばれる形式システムに基づいています。
0から始まる正の整数と、前章の命題計算、さらに一般化規則・存在規則・帰納規則を備えた非常に強力なシステムで、それゆえ TNT と名付けられています。
重要な点は、このTNTのような形式システムを使うと、出発点の公理から真となる定理を確実に作り出せる、という点です。
TNTを使った1つ1つのステップには、曖昧な部分も疑問になる点も何もありません。ただ規則の選択と繰り返しがあり、その先に確実な到達点 = 定理があります。そうやって、公理から何の誤りもなく辿り着いた定理は、論理的には、必ず真であるはずです。
以前にも出てきましたが、真となる公理から出発して偽にたどり着く心配がないこと、つまり 真 = 偽とならないこと を 無矛盾性 と呼びます。その意味で、TNTはおそらくきっと無矛盾です。
では、全ての真となる定理は、公理から出発してたどり着けるものなのでしょうか? この、真となる定理をすべて網羅できること を 完全性 と呼びます。
無矛盾性と完全性、この2つをTNTは兼ね備えているのでしょうか?
20世紀初めに活躍したダフィット・ヒルベルトは、このTNTのような、むしろより弱い形式システムを用いて、 TNT自身の無矛盾性と完全性を証明できる と考えていました。そうすれば、数学上の問題で曖昧なもの・わからないものは無くなり、すべては機械的に決定できてしかもそれが正しい、という事になります。
残念ながら、この目論見は続く章で否定されることになります。
無の捧げもの
禅と分子生物学が奇妙に入り混じった対話篇です。
矛盾に満ちた禅の公案が紹介され、なんとそれが糸の形に翻訳されて、しかも、ある決まった手順で仏性を有するかどうかが確認できる。そんな話をアキレスが亀に教えます。
しかし、「この心は仏である」「この心は仏ではない」この2つの公案については、どちらが仏性を有する本物の公案かは分からない、とアキレスは嘆きます。そして、仏性についてそんなにあれこれ問うべきじゃないと師から警告されたとも言います。
無門とゲーデル
対話篇を引き継ぐ形で、禅の紹介が続きます。
「言葉では真理はとらえられないというのが禅の立場である」
この禅の問題意識が、数学者にも通じていると解説されています。
「数学者のジレンマはこうである。形式システム以外に何に頼れるのだろうか? そして、禅家のジレンマはこうである。言葉以外に何に頼れるのだろうか?」
「言葉では表現できないし、言葉なしでは表現できない。」
禅の紹介に続いて、ついに本書の最初の方に出てきたMUパズルの回答が与えられます。MU(無)は作れるか? というあのパズルです。
ここでは、パズルが数値化されて数論の中に表現され、その上で回答が証明されます。(回答は本書参照) パズルの数値化は、ゲーデルが用いた ゲーデル数 の概念と重なります。MUパズルが数の問題、つまり数学的命題に翻訳されたように、数学的命題自身も、ゲーデル数の形で数学的命題に翻訳することができます。
「この簡単な知見がゲーデルの方法の核心にあり、絶対的な破壊効果をもたらす。それによれば、任意の形式システムに対するゲーデル数付けがあれば、ゲーデル同型対応を完成させる一組の算術的規則を端的に作り上げることができる。いかなる形式システム(実にあらゆる形式システム)の研究も、数論に移行させることができる−−これが要点である。」
本章では、ゲーデル・コドンという3つの数字の組を用いてTNT自身が表現できることが示されています。
さて、そのゲーデル・コドンを並べることでTNTの命題を表す数字が作れ、その数字に対してTNT自身で議論が行えることになります。すると、ある数字がTNTで定理となる命題を表しているか? という命題もTNTで表現できるようになります。
TNTの命題を数字(ゲーデル数)にコード化でき、それに対してTNTで命題が作れる……ということは、工夫すれば、 自分自身を表す数字についての命題 をTNTで表現できることになります。
本書では、その自分自身についての命題、自己言及文を G と呼んでいます。 G の内容は、下記のとおりです。
「GはTNTの定理ではない」
これだけでは、意味深ではあるけれど掴み所がありません。私の出来る範囲で噛み砕いてみます。
まず、Gは数字 です。ゲーデル・コドンで作られた命題を表す文字コードの列で、つまり テキストファイル です。
先ほどの「GはTNTの定理ではない」は、テキストファイル G.txt の内容が、TNTで作れる定理かどうかを問うている事になります。
「G.txt はTNTの定理ではない」
さて、G.txtの内容について、それを確かめる前であれば、何が書いてあるかわかりません。いろいろなものが考えられます。
それが昨日の晩御飯メニューや渡せなかったラブレターだったりしたら、当然TNTの定理ではないので、命題「G.txt はTNTの定理ではない」は真です。
もし、「1 + 1 = 2」だったり「57は素数ではない」だったりしたら、TNTで証明できる定理なので、命題「G.txt はTNTの定理ではない」は偽です。
G.txtに書かれている内容がどうであれ、「G.txt はTNTの定理ではない」は真か偽のどちらかに違いない、という点を踏まえ、ドキドキしながらG.txtを開いてみます。その内容は……。
G.txt はTNTの定理ではない
思考が止まりかけますが、頑張ってこの命題の真偽を考えてみます。
そもそもの命題は「G.txt はTNTの定理ではない」でした。そして、G.txtの内容は「G.txt はTNTの定理ではない」です。そこで、元の命題に代入してみると、
「G.txt はTNTの定理ではない」はTNTの定理ではない
になります。
こんなものはTNTの定理では無い気がします。そこで、「G.txt はTNTの定理ではない」は真という事にしてみます。すると、「(G.txt = 真の命題) はTNTの定理ではない」は真で、TNTの定理ではない……。
そう、 「G.txt はTNTの定理ではない」は、真の命題なのにTNTの中で証明できません。
この結果に納得がいかないとしたら、「G.txt はTNTの定理ではない」を偽にしてみるほかありません。すると、「(G.txt = 偽の命題) はTNTの定理ではない」は偽で、その否定「(G.txt = 偽の命題) はTNTの定理」がTNTの定理となります……。
つまり、 「G.txt はTNTの定理ではない」は、偽の命題なのにTNTの定理→矛盾になってしまいます。
ここで、次の2つの選択肢が与えられます。
- 「G.txt はTNTの定理ではない」は真で、TNTの中では証明できない。
- → TNTで証明できない真の命題がある
- 「G.txt はTNTの定理ではない」は偽で、「G.txt はTNTの定理」がTNTの中で証明できる。
- → TNTから矛盾が生じる
どちらが良いでしょうか?
矛盾が生じるくらいなら(「ああ、こんな矛盾が生じたんだから、これからは何でも信じなくちゃならない」)、少しくらい証明できない定理がある方がマシだと、多くの人は考えます。
そこで、TNTを投げ捨てるようなことはせず、普通の人は証明できない定理があることを受け入れて、 不完全 なTNTと共に生きていくことを選びます。
さて、そういう現実的な決意をした上で、もういちど元の命題を見てみます。
「GはTNTの定理ではない」
これは、不完全なTNTと共に生きていく決意をした後になってみれば、確かに真 であることがわかります。
そう、TNTの中では証明できないが、その外側では確かに真と言える命題 になっているのです。
これはめまいがするような体験です。
このめまいを、次回のGEB読書会では 身をもって 体験できるようにしたいと思います。