第1回「音楽の捧げもの」レポート
2016/3/27(日)、GEB読書会第1回「音楽の捧げもの」を無事に開催することができました。 今回は主催2名も含めて10名+スカイプ参加1名もの方々に参加して頂けました。 参加してくださった皆さん、ありがとうございました。
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なかなか時間が取れず遅くなってしまいましたが、今回の範囲と当日の話題についてレポートします。
今回の範囲
- [序章] 音楽=論理学の捧げもの
- 三声の創意インヴェンション
- [第1章] MUパズル
- 二声の創意インヴェンション
- [第2章] 数学における意味と形
次回の範囲
* 無伴奏アキレスのためのソナタ
(P77〜P165まで)
章の長さの都合で100ページ近くなってしまいましたが、なんとか頑張って読んでいきましょう!
[序論] 音楽=論理学の捧げもの
バッハ
1747年、フリードリッヒ大王に呼び出されたバッハが即興演奏の腕前を見せるところから、本書は語り始められます。 この時に王から与えられた主題をバッハが様々に変奏した曲集が、本章のタイトルにも取り入れられている「音楽の捧げもの」です。
この章は、バッハの音楽の核心を成すカノン・フーガや対位法についての解説であるとともに、本書自身への自己言及でもあります。 それは、次のような箇所から感じられます。
recherchéという語は、文字通りには「探し出された」という意味だが、同様の服み、すなわち深遠な、もしくは衒学的才気をにおわす。
(24P)
『音楽の捧げもの』の十曲のカノンは、バッハが書いた最も精緻なカノンに数えられる。けれども妙なことに、バッハ自身はそれらを完全な形に書き上げなかった。これは意図あってのことだった。つまり、これらの曲をフリードリッヒ大王にパズルとして提出したのである。当時よく楽しまれた音楽遊戯のひとつに、単一の主題を与えて、それに多少巧妙なヒントをそえ、その主題に基づいたカノンを誰かに「見つけさせる」というのがあった。
(24P)
これは、実は本書にそのまま当てはまる言明です。GEBもまた、精緻なカノンであり、完全な形に書き上げられていない作品であり、読者の前に巨大なパズルとして提出されているものです。まさに「音楽=論理学の捧げもの」と題されている通りです。
バッハの作品について、本書でキーとなる「無限に上昇するカノン」が紹介されています。 転調を繰り返して無限に音が高くなるように聞こえて、実は最後に元の調に戻っている。バッハはそんな不思議なカノンを残しています。 著者はこれを、「不思議の環」の最初の例として取り上げています。
「不思議の環」現象とは、ある階層システムの段階を上へ(あるいは下へ)移動することによって、意外にも出発点に帰っているときの現象である。(ここでのシステムは、音階組織である。)不思議の環の生ずるシステムを揚言するために、著者はときおりもつれた階層という用語を用いる。
(26P)
音楽について私は素養がなくて解説できないのですが、会ではこんな本を紹介して頂けました。
考えてみれば、音楽というものは、コンピューターもなかった時代にもっとも数学的で論理的な構築物だったと言えるかもしれません。
エッシャー
私の考えでは、「不思議の環」の概念を最も美しく力強く視覚化したのは、オランダのグラフィック・アーティスト、M・C・エッシャーの作品である。
エッシャーは数学的な作品を多く残しています。著者がここで取り上げているのは、『上昇と下降』と題された無限の階段を描いた作品や、『描いている手と手』という、手が手を描きその手がまた元の手を描いている作品です。
そこでは、いかなるひとつのレベルをとっても、つねにその上にもっと大きな「現実」のもうひとつのレベルがあり、つねにその下に「もっと空想的な」レベルがある。このこと自体にたまげてしまう。けれども、レベルの鎖が直線でなく環を成しているとしたらどうだろう。その場合、何が現実か、そして何が幻想か? 数々の半現実的、半神話的世界、不思議の環にみちみちた世界、見る者を誘い入れようとしているその世界、それを思いついただけでなく実際に描いたところが、エッシャーの天才である。
(32P)
ゲーデル
この部分はバッハ・エッシャーに比べても難解で、かつかなり飛ばし気味です。正直、ゲーデルに関しては後の章でいくらでもやるので、ここでは雰囲気がつかめれば良いと思います。
大事なポイントは、バッハが音楽で表現し、エッシャーが絵画で表現した自己言及や「もつれた階層」「不思議の環」が、数学の世界でも発見されている、ということです。
本書が中心的に扱うのは、まさに、その数学上の発見物と、そこから派生するもろもろの概念です。
数学基礎論については、以前機会があって個人的にスライドをまとめたことがあります。 良かったらこちらも参考にしてください。
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三声の創意インヴェンション
有名なゼノンのパラドックスを下敷きにした愉快な対話篇です。亀とアキレスは、この後もずっと出てくる本書の主役級キャラとなります。
アキレスが亀に追いつくまで、まず半分の距離を移動する必要がある。半分移動したところで、亀は少し前進しているので、またその半分の距離を移動しなければならない。そこにたどり着いたとしても、亀はまた移動しており、また半分移動する必要が生じ……。よって、アキレスは永遠に亀に追いつけない。
ゼノン自身は、この運動の不可能性の他に、空間が存在できないという主張や、ものが多数存在できないという主張など、興味深い論理を展開していたようです。 次郎さんの開催されている二会では、以前に下記の本を扱ったことがあり、西洋哲学史の流れの中でエレア学派の一人としてのゼノンの紹介がされていました。
ゼノンの論理は、論理としては正しくても、現実にうまく対応しないモデルとなってしまっているようです。このモデルと現実との対応や乖離については、この先の章につながっていくことになります。
[第1章] MUパズル
この章では形式システムの紹介が行われます。
MUパズルのルール
下記のルールに従って、M・I・Uの3文字を連ねた文字列を作る。
- 末尾がI 場合、後ろにUを付けてよい。
- MI → MIU
- MIII → MIIIU
- M〜という並び(〜 M 次から末尾まで)があれば 、〜 部分を2倍に増やしてよ
い。
- MIU → MIUIU
- MIII → MIIIIII
- Iが3文字続いていたら、Uに置き換えてよい。
- MIIIU → MUU
- MIIIIII → MIIIU でも MUIII でも可
- Uが2文字続いていたら、そ U2文字を消してよい。
- MIUU → MI
- MIUUIU → MIIU
問題:MIから初めてMUが作れるか?
ここで、これからの議論で重要となる以下の用語が定義されます。
- 定理
- ルールに従って作り出された文字列
- 証明・生成
- ルールに従って文字列を作り出すこと
- 公理
- 最初に与えられる定理(文字列)
- 生成規則・推論規則
- 文字入れ換えの規則
それから、形式システムに対する3つの視点が紹介されます。
- M方式 = 機械方式(Machanical mode)
- 規則に従って文字列を操作していく方式
- I方式 = 知的方式(Intelligent mode)
- 規則を離れ、システムを外から観察する方式
- U方式 = Un方式(Un-mode)
- 禅
果たしてMIからMUは生成(証明)できるのでしょうか? それは、後の章で明らかになります。
二声の創意インヴェンション
引き続き亀とアキレスの登場する対話です。ここは「不思議の国のアリス」で有名なルイス・キャロルの物語がそのまま引用されています。
この対話でも、論理(システム)と現実との乖離がテーマになっていると思います。現実と対応して考えたら認めざるを得ないことであっても、論理だけであれば無限に決定を引き伸ばすことができます。
次の章では、論理(システム)と現実との対応関係について解説されます。
[第2章] 数学における意味と形
次に紹介されるのは、pqシステムです。
pqシステム
- 3種類 文字 p、q、― を使用する。
- Xが―だけ 列であるとき xp―qx― 公理である。
- X、y、zがそれぞれ―だけ 列であるとき、xpyqz が定理であれ 、xpy―qz―も定理である。
今度の形式システムは、前と違って公理がパターンの形になっています。これは公理図式と呼ばれていて、このパターンにマッチするものは全て公理です。
そして、今回は生成規則が1つしかありません。
この章で明らかにされていることですが、実はこのpqシステムでは、算数の加法が表現されています。 規則に従う限り、最初のハイフンの列、p(plus)、次のハイフンの列、q(equal)、ハイフンの列の合計、という形になります。
決定手続き
pやqやハイフンの列を見たとき、それが正しくpqシステムで構築されたものなのか、あるいはそうでないのか、それを決定する手続きについて解説されています。 形式システムから作れる定理かどうかを調べる手続きは決定手続きと呼ばれます。決定手続きは次の2つが考えられます。
会場では、これらを半自動で行えるソフトウェア(プログラミング言語))として、定理証明支援系のCoqが紹介されていました。
プログラミング Coq Welcome! | The Coq Proof Assistant
同型対応
pqシステムのような形式システム、形だけのシステムが、どのように意味を持つのか? その仕組みとして、同型対応と解釈という概念が紹介されています。
形式システムと現実(意味を持つ世界)とは、それぞれ独立して存在します。それらは本来お互いに関わり合いがありません。
しかし、システムを見た人がそこに現実と対応する解釈を見つけると、形式システムに意味が生じます。それからは、意味に従った形式システムの解釈や検討が可能になります。
ただし、解釈にはどうしても人間の側の恣意性が生じます。まったく意味のない解釈もできれば、あるとき突然解釈にそぐわない結果を形式システムが返してくる可能性もあります。
会では、この解釈の問題について、最近話題の囲碁プログラムAlphaGoが話題に上がりました。 これはもちろん囲碁をするよう意図されたプログラムですが、内部の形式システムは本来囲碁とは独立で、それだけで動作可能なものです。 出てきた結果を人間が囲碁として解釈することで、初めて、それが囲碁を打っていることが明らかになります。
この章の最後で、本書全体を貫くひとつの問題が明らかになります。
非常に重要な問題は、われわれが定式化する記号処理のための規則が、われわれの頭脳によるふつうの論証能力と(数論に関するかぎり)本当に同じ能力をもっているかどうか、あるいはさらに一般的にいって、われわれの思考能力のレベルを、ある形式システムを使うことによって達成することは理論的に可能か、ということである。
紹介書籍
今回も多くの参考文献を教えていただきました。